2011年8月13日土曜日

西安旅行記~part3・前篇

3日目は、ちょっとしあツアーへと行きました。
日本語の上手なガイドさんのおかげもあり、存分に楽しめました。
その言った場所と言うのは……私のハマっている"三国志"でも有名な、あの五丈原(ごじょうげん)です!
中国=三国志という事で、その時代に縁のある場所はないかと思ってましたが…まさか…あの"伏竜"と謳われた稀代の名軍師・諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の最期の舞台とも言える五丈原へ行けるとは…!

 朝飯の後、ホテルを出て車で行くんですが…国道で大事故があったらしく、車の大行列が…。
途中で車を長時間止めるハメになってしまいました。
ですが、運転手さんがとあるテク&近道で予定よりも早く五丈原に到着しました。
そしてまず門を潜るとですね、武将の馬岱(ばたい)と魏延(ぎえん)の像がお出迎えです。
そこの資料館には、孔明の誕生から病没までの出来事が書かれた資料が展示されておりました。
孔明の幼少時代、劉備との出会いの原因となった三顧の礼、孫呉の大都督・周瑜(しゅうゆ)と共に活躍した赤壁の戦い、南蛮平定といった詳しい詳細がありました。

当然漢文でしたが、分かりやすい絵とガイドさんの説明もあって、どの様な書かれていたか、とてもよく分かりました。
三国志マニアの私でも知らなかった部分もいくつかあり、もう一度読み直してみようと思いましたね。
どの様なモノがあったかの詳細は…後日、説明したいと思います。

さて…ここで、劉備没後の孔明の活躍の前篇を解説したいと思います。

 章武3年4月24日、蜀漢皇帝・劉備(りゅうび)の没後、その帝位はその子・劉禅(りゅうぜん)が継ぎ、孔明はそれを補佐する丞相(じょうしょう)となります。
孔明は曹魏との戦いに備え、一度は破られた孫呉との同盟を復活させました。
呉は一度、共に打倒曹操を誓った蜀との同盟を一方的に破棄し、劉備の義弟・関羽(かんう)張飛(ちょうひ)に死を齎しました。
呉の知将・呂蒙(りょもう)陸遜(りくそん)の策略により、荊州(けいしゅう)を守っていた関羽はそこを奪われ、麦城(ばくじょう)に逃げ込み、再びやって来た呂蒙の軍を迎え撃ちますが、とうとう討たれてしまいます。
そして、関羽の弔い合戦に燃える張飛も、生来の酒癖の悪さと短気が災いし、恨みを持った部下に暗殺されてしまうのでした。

その呉との同盟を復活させた後、兼ねてより反乱の気配のあった南中(なんちゅう)の平定へと乗り出します。
孔明は自ら軍を率いて南征し、七度の戦いで南中王・孟獲(もうかく)を心服させる事に成功します。
その後、孔明は三軍を率いて、いよいよ北伐へと乗り出します。
蜀軍は漢中(かんちゅう)から北上し、南安(なんあん)、天水(てんすい)、安定(あんてい)の三群へと向かい、そこを制圧し、更にその天水では、魏に仕えていた知勇兼備の将・姜維(きょうい)を味方に加える事に成功します。
焦った魏軍は、軍師・司馬懿(しばい)に命令を下し、蜀軍の迎撃に備えさせます。
そこからいよいよ、五丈原の戦いが始まるのです……。

0 件のコメント:

コメントを投稿